県名発祥の地、行田市埼玉周辺には、大型古墳が群集する「埼玉古墳群」があります。
現在、史跡区域内に、9基(前方後円墳8基、円墳1基)の古墳が原型を残しています。全長100m以上の古墳が4基、90mが1基という日本有数の大型古墳群であり、昭和13年には国の史跡にも指定されました。
「さきたま史跡の博物館」の学芸主幹、井上尚明さんの説明によれば「土器や埴輪などの出土品から見て、『埼玉古墳群』が形成された時期は、5世紀後半から7世紀初めごろまで」と考えられているそうです。約150年間で40基以上の小型円墳が造られていましたが、明治から大正にかけてその多くが失われました。
今から約1,500年前、5世紀後半に造られたのが「稲荷山古墳」。この古墳は、古墳群の中で最初に出現しています。
「稲荷山古墳」は、全長(主軸長)120mの前方後円墳で、「埼玉古墳群」では、二子山古墳に次いで大きな古墳です。古墳の上に小さな稲荷社があったことからこの名で呼ばれています。前方部は、昭和12年の土取りによって削られてしまいましたが、平成9年から復元工事が行なわれ、平成18年に築造時の墳形を取り戻しました。
昭和43年に実施された発掘調査では、後円部の頂上から2基の埋葬施設が見つかっています。
「“粘土槨”はすでに盗掘されていましたが、“礫槨”(岩片)は未盗掘であり、数々の遺品が残されていました」(井上さん)
礫槨からは鉄剣、鏡、帯金具、鞍・鐙などの副葬品が出土し、昭和58年に出土品のすべてが国宝に指定されました(国宝は「さきたま史跡博物館」に展示)。なかでも、115文字の金石文(遺物に刻まれた文字・文章)が刻まれた「金錯銘鉄剣」、中国の思想・世界観を表現した鏡、「画文帯環状乳神獣鏡」、竜の姿を透彫りした「竜文透彫帯金具」は、日本の古代史を解き明かすうえで重要な「世紀の大発見」といわれています。



また、大型古墳唯一の円墳が「丸墓山古墳」です。直径は105m。古墳群の中ではもっとも墳丘が高く眺望がきくため、忍城を水攻めにした石田三成は「この墳丘に陣を張った」と言われています。
この古墳だけどうして「円墳」なのか、その理由はいまだわかっていないようです。
「丸墓山古墳だけでなく、埼玉古墳群にはわかっていないことがたくさんあります。地域史、日本史、アジア史を考えた場合は、古墳だけを検証せずに、その周囲にあったであろう集落や生活域にも目を向ける必要があります。ところが、この古墳群には大きな集落が見つかっていません。人々の生活の痕跡が見つかっていないことも謎のひとつですね」(井上さん)
 なぜ、この場所に古墳がつくられたのか。
 なぜ、丸墓山古墳だけ円墳なのか。
 なぜ、集落が見当たらないのか。
 なぜ、前方後円墳の方向がどれも同じなのか……。
「埼玉古墳群」に秘められた謎は、長い年月をかけて少しずつ明らかにされていくことでしょう。
「現在、奥の山古墳の発掘を進めていますが、すべては掘らず、意図的に残しておきます。なぜなら、今の技術ではわからないことでも、100年後、200年後の新しい技術を使えば判明するかもしれないからです。古墳の調査は、10年後、20年後を見据えたものではありません。1,500年前に造られた古墳を、1,500年先まで残していく……。それが私たちの義務なんです」(井上さん)


「さきたま史跡の博物館」の館内には「さきたま体験工房」が併設。
白・ピンク・黒などの滑石を紙ヤスリで磨いて作る「まが玉づくり」など、さまざまな「古代体験」を楽しむことができます。
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/

写真1〜5は、さきたま史跡の博物館の許可により「ガイドブックさきたま」より転載しております。


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