城下町として栄えた寄居町の原点とも言える「鉢形城」。『新編武蔵風土記稿』では源経基によって築城され、その後畠山重忠が在城したとされていますが、城郭の構造や史料からは文明8年(1476年)6月に長尾景春が築いたとする説が最も有力と考えられています。その後、上杉顕定や古河公方足利政氏の弟である上杉顕実が城主となりますが、小田原の北条氏の勢力が武蔵に浸透して上杉氏を一掃。永禄初年頃、北条氏邦が入城して行った大規模な改修工事をきっかけに、周辺市街も少しずつ城下町の形態が整っていきました。

 鉢形城は本丸を中心に二の丸・三の丸・諏訪曲輪・秩父曲輪・外曲輪などが造られ、ぞれぞれ土塁と堀によって区切られています。現在、残っているのは城郭の基礎や部分的な堀だけですが、保存状況は良く規模的にも北武蔵で最大級。多くの城郭が残されている埼玉県にあって、鉢形城は昭和7年にいち早く国の指定を受けています。その学術的価値はきわめて高いと言っていいでしょう。

 戦国時代における戦略的価値はさらに高く、荒川の大河が創り出した河岸段丘の上に広がる巨大な城はまさに「天然の要害」。北条氏領国の北辺の要として上杉謙信、武田信玄と対峙するなど、名門・北条氏70万石の大大名にふさわしい難攻不落の名城としてその勢力拡大に大きく貢献しました。

勇壮な武者姿で参加した寄居支店職員
 鉢形城の運命を大きく変えたのは天正18年(1590年)、天下統一をめざす豊臣秀吉の小田原征伐でした。北条氏の本拠・小田原城とともに豊臣軍の攻撃目標となった鉢形城には前田利家、上杉景勝ら名だたる猛将の軍勢5万人が押し寄せます。迎え撃つ鉢形城の兵力はわずか3500。圧倒的な兵力差を“地の利”で補いながら互角にわたり合うこと実に1ヶ月。6月14日に落城するまでの苛烈な鉢形城攻防戦は、その堅牢さを示す故事として今も語り継がれています。

 玉淀を望む景勝地に位置する現在の鉢形城跡は、寄居の市街地と荒川を隔てた丘陵上にあり、駅からの距離も徒歩30分程度という絶好の散策コース。広々とした城郭跡は芝生広場に、荒川を望む断崖上の自然林は木洩れ日やさしい散策路となっています。また、毎年4月の第二日曜日に開催される「寄居北条祭り」では、鎧甲に身を固めた武将たちや玉淀河原に砲声を響かせる大砲が登場し、戦国時代さながらの迫力あるシーンを再現。ここを拠点に領地の発展に力を尽くした名君・北条氏邦を偲びながら、地域の人々が交流と憩いのひとときを楽しむ場。それが現在の鉢形城址です。


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