文化財
「妻沼の聖天さま」として地域の人々に親しまれ、県外からも多くの礼拝者が訪れる熊谷市妻沼の聖天山歓喜院。中でも1760年建立の本殿「聖天堂」は江戸時代中期を代表する装飾建築の一つとして知られ、昭和59年には国の重要文化財に指定されています。ここでは平成15年より大規模な本殿保存修理事業が始まっている歓喜院聖天堂をご紹介しましょう。
桃山時代の建築美を伝える聖天堂。平成20年9月には保存修理事業を終え、建立当時の荘厳な姿が蘇る。写真は修理前の姿(撮影 小野吉彦様)


 聖天山歓喜院の起源は治承3年(1179年)、源平合戦で名を馳せた斎藤別当実盛公が古社を修造、守り本尊の大聖歓喜天を祀って聖天堂と称したことに始まります。その後、長井庄の総鎮守として長く人々に崇められた聖天堂は寛永の大火による消失や徳川家康の再興といった幾多の変遷を経て、宝暦10年(1760年)、棟梁林兵庫正清・正信らによって現在の姿となりました。その荘厳な建築美は江戸時代中期を代表する装飾建築の一つとして広く知られていますが、最大の特徴はやはり、建物を覆い尽くす精微な彫刻の数々と鮮やかな彩色でしょう。歓喜院聖天堂の建築美は日光東照宮の絢爛豪華な姿を彷彿とさせるもので、その建立には東照宮の修復を手がけた名工たちも数多く参加したと言われています。中には、かの名工、左甚五郎作と伝えられる彫刻も。そんなエピソードからも、歓喜院聖天堂の彫刻に高い技巧が施されていることがうかがい知れます。
 日光東照宮をはじめとする江戸前期の寺社建築が幕府や大名によってなされたのに対し、江戸中期からは庶民の力による建造が盛んになりました。もちろん聖天堂もその一つ。庶民一人ひとりの寄進をもとに建立されたものだからこそ、今も人々に親しまれ、多くの信仰を集めているのかも知れません。「平成の大修理」として平成15年に始まった本殿の保存修理事業は、文化事業としての大きな意義だけでなく、地域の人々に脈々と息づく「妻沼の聖天さま」への想いに応える地域振興の一つと言ってもいいでしょう。平成20年9月の完成をめざす足かけ6年の長期プロジェクトは、私たちのご先祖が大水害や大飢饉を乗り越え、44年もの年月をかけて建立した聖天堂の勇姿を今に蘇らせる一大事業なのです。

建立時と同じ「こけら葺き」で進められる屋根下地部分の修理風景。中央が盛り上がった「軒唐破風」の微妙な曲線が技巧の高さを物語る




大小無数の彫刻が建物全体を覆い尽くす装飾建築。彫刻の傷みはほとんどないが、表面に施された極彩色は剥落が進んでいる。修復にあたっては、建立当初の彩色の記録をとり、修復のための見取図(下の写真)を作成する。彫刻は保存のためほこりの清掃と下地処理を行い、彩色を復原する。







極彩色の色づけは精微な彫刻と並ぶ装飾建築の2大特色。古くから伝わる岩絵具や染料を使い、すべての図柄について、残っている彩色から復原図を描き起こし、模様や配色・発色を確かめる。これらは保存され、次回以降の修理に役立てられる。

 本殿は修理中ですが、聖天山歓喜院ではこのほか、国の重要文化財に指定された「錫杖頭」「貴惣門」や県の指定文化財である「板石塔婆」など、さまざまな文化財を見ることができます。平成8年には聖天山開創800年を機に「実盛公遺跡探訪遊歩道」が旧妻沼町によって創設されましたし、広大な境内は公園や休憩所なども整備され、地域の人々はもちろん、遠来の参拝・観光客の方々にも“憩いの場”として親しまれています。熊谷が誇る文化資産でもある聖天山歓喜院。その歴史的価値の大きさははかり知れません。250年の時を隔てて間もなく、美しい姿が蘇らんとしている「妻沼の聖天さま」をご紹介させていただきました。



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