伝統工芸
明治・大正期には200軒を超える染め物工場がひしめいたという熊谷。その後、着物の需要衰退に伴い数軒にまで激減した厳しい状況の中でまさに孤軍奮闘、今も熊谷染の伝統を守る(株)ソメヤの染谷政示社長にお話をうかがいました。
一反まるごとの色づけから蒸し、洗い、乾燥までの全行程が一つの建物の中でできる染め物工場。これだけの規模は熊谷でも数少ない


最低限の合理化に踏み切った三代目の英断
 荒川と利根川に挟まれた扇状地の先端に位置する熊谷は、その豊かな伏流水の恵を受けて古くから染め物業が発展。養蚕と絹織物の盛んな北関東、江戸に近い宿場町という好立地から、武士の裃に用いられた正絹の江戸小紋を中心に反物づくりが栄えたと言われています。かつては東京・荒川で代々続く染物屋を営んできた染谷家がこの地に移り住んだのは、染谷政示社長の先々代にあたる祖父の時代だったそうです。
 「物心ついた時から工場が遊び場でしたから、当然のように職人の道を選びました。ただ、従来のやり方では時間と手間がかかりすぎて生産量も限られるし後継者も育たない。それで、最低限の合理化に踏み切ったんです」。
 熊谷染の継承者としては3代目となる染谷社長の決断は、それまで職人の熟練技術に頼ってきた型紙の色づけ、蒸し作業などの行程を一部機械化し、生産量を増やすというもの。「芸術品ならすべての行程を昔ながらの手作業でやります。でも私たちが染める反物は本来、着物として実用化されてこそ意味があるもの。需要に見合う改革は必要です。ただ、合理化したと言っても肝心な部分はやはり手作業でなければ。型紙を固定して失敗を減らしたり、温度や湿度を調整できる蒸し機を導入したりしましたが、それでもその日の気温や湿度も影響するので、決して同じ色の反物は作れません。一人前の職人を育てるには10年かかるでしょうね」。その言葉通り、染料の配合や色付けの力加減、蒸しや洗い、乾燥時間などは職人の勘と経験次第。
 「そこが難しく、だからこそ面白い。機械で型紙を作って輪転機で色づけすればもっと大量生産できますが、それをやったらお終いでしょう」。そこには、経営者であると同時に一人の職人でもある染谷社長の強いこだわりとプライドが見て取れます。

染谷社長が導入した蒸し工程用の機械窯。ここでの蒸し具合が正絹地にのせた染料の発色を決める重要なポイントのひとつ

世の中の人々に支えられてこその伝統工芸
 「ひとことで熊谷染と言っても、私たち染屋の仕事は一番下流にあるもの。その前に型紙の和紙を漉く職人、型紙を彫る職人、絹を織る職人がいて初めて成り立つんです」という染谷社長が無造作に取り出したスクラップファイルには、人間業とは思えない微細な図柄が彫られた和紙の型紙がぎっしりと詰まっています。
 「たとえば数ミリ間隔の単純な格子図柄ひとつとっても、よじれがこないように2枚重ねした和紙の間に等間隔で細い糸が通してあるんです。実は以前、機械で同じような型紙を作ってみたんですよ。でも、機械だと正確すぎて目がチカチカしてしまう。いわば人間にしかできない“神業”ですね。実際、これを彫った職人も糸を通した職人も人間国宝に指定されています。文化財としての価値だけで言えば数億円はくだらないでしょう」。
 それほど貴重な型紙を今も“道具”として使い続けている染谷社長。人間国宝に指定された件の職人たちが次々と他界し、大切なパートナーを失いつつある現在はまさに「上流がせき止められた状態」と苦笑いしながらも、染谷社長ならではの哲学で熊谷染の未来を模索しているのも事実です。
 「人間国宝が何人も集まって作るからすごい、というものではないと思うんです。正絹の反物で作る着物は確かに高価ですが、それに見合う良さが必ずあるはず。もともと日本人にとっての着物は日常着なんですから、良いものは軽くて温かくて着崩れもしない。成人式や卒業式などで初めて身につける着物が機械染めのポリエステルでもいいんですが(笑)、そこで『着物は窮屈で着崩れするもの』という印象を持たれては困りますね。本物の良さを知ってもらう“入り口”をどう提供していくかが私たちの課題だと思っています。本当にアピールしたいのは熊谷染でなく着物の良さなんですよ」。
 保護される伝統工芸よりも世の中に支えられる伝統工芸をめざす染谷社長。その職人魂こそが、熊谷の大きな財産と言えるかも知れません。

正絹の下生地に日本独特のワビ・サビを醸す色彩が染め抜かれた独特の熊谷染。江戸小紋に代表される微細な文様も大きな特色









取材にご協力頂いた
(株)ソメヤ 代表取締役社長 染谷政示様


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