明治維新以後、一度は取り壊されますが、昭和63年(1 9 8 8年)に再建され、行田市郷土博物館の展示室としても使用されています。
城内にある鐘楼の鐘は、江戸時代の城主松平氏が伊勢桑名より忍城へ移封する際、持ってきた
現存する石田堤。
自然にできた堤防を利用して盛り土して築きあげたといわれている

石田三成が陣を張った丸墓山古墳は、日本最大の円墳として有名

忍城の外堀を利用して造られたのが水城公園。日本庭園も設けられている

 秩父鉄道行田市駅から徒歩で約10分、行田市役所のすぐ近くに忍城が建っています。文明11年(1479年)ごろに現在の熊谷市を拠点とする、成田顕泰によって築城されました。
 忍城は、石田三成の水攻めに耐えたことで後世に語り継がれ、小説『のぼうの城』(和田竜・著)が発表されてから一躍有名になりました。
 北条氏と戦いを始めた豊臣秀吉は、家臣たちに関東近辺に散らばる、北条氏に味方する武将の城を次々に攻め落とさせます。天正18年(1590年)、石田三成は約2万人もの軍勢で忍城を攻めましたが、その周りが広大な深田や沼地だったため苦戦しました。そこで石田三成は、その地形を逆手にとって水攻めを計画したのです。
城の周囲をU字型で囲むように堤を築きあげ、利根川と荒川の水を城に引き入れました。全長約28キロにもおよび、石田三成が築いたことから、石田堤と呼ばれています。現在は、行田市堤根に約250メートルの堤が史跡として残っています。
 石田三成の計画は、堤の一部が決壊することで失敗。
その後も、総力を挙げて忍城を攻めますが、北条氏が降伏したため落城に至る前に、戦いは終わりました。
 江戸時代に入ると、徳川家の譜代や親藩の大名が城主となり、元禄15年(1702年)には御三階櫓が完成しました。



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