蓮生法師の御墓所。
夫人の相模の方と息子の直家の墓も側に建立





 JR熊谷駅より徒歩15分。熊谷市仲町にある浄土宗蓮生山熊谷寺は、蓮生法師を開山、幡随意上人を中興とする由緒ある古刹です。「蓮生」とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍し、「坂東一の剛の者」と称えられた武将の熊谷直実が、出家してから名乗った法名です。

 「京都では僧侶の蓮生さんで知られていますが、関東では武将としての熊谷直実がクローズアップされており、出家してからのことは、ほとんど知られていません」と、蓮生山熊谷寺の住職漆間淳郎さん。確かに、熊谷駅前のロータリー広場に建つ銅像も武将姿です。
 熊谷直実は、武蔵野国熊谷郷(現・熊谷市)の領主・熊谷直貞の三男として生まれ、幼名を弓矢丸といいました。
その名の通り、弓の名手であったそうです。源平の合戦では、源頼朝に従って御家人となり、武勲によって熊谷郷の地頭職に任ぜられました。源氏と平氏の命運をかけた一の谷の戦いでは、源義経の配下として先駆けし、心ならずも自分の息子と同じ年頃の若武者、平敦盛を討ち取りました。これが出家を決意する動機になったと伝えられています。

八木橋百貨店の近くに熊谷寺の入り口がある

熊谷駅前の『熊谷之次郎直實像』は、
北村西望氏(代表作は長崎平和祈念
像)の作品

 浄土宗の開祖である法然上人に師事した蓮生法師は、京都で修行を重ね、熊谷郷に戻ると、熊谷氏館跡の一隅に草庵を結び、念仏三昧の生活を送ったといいます。その草庵が、現在の熊谷寺の始まりです。

熊谷寺の寺宝のひとつである、
『蓮生法師東行逆さ馬之図』


「最初に法然上人のもとを訪れたとき、蓮生さんは涙を流し、大声で泣きだしました。自分のような者は、手を切れ、足を切れといわれ、それでも地獄行きだろうと思っていたところ、法然上人から念仏をとなえるだけで救われると説かれたからです。のちに蓮生さんが熊谷に建てた草庵は、4畳半ほどの小さなものだったと思います」
 蓮生法師には、法然上人がほかの弟子に授けた「南無阿弥陀仏」の名号※を横取りしたとか、往生の中で一番優れている「上品上生の往生」の願を立てた、予告して往生を遂げると紫雲がたなびき音楽や芳香が流れたなど、数々の逸話や伝説があります。「東行逆さ馬」もその一つです。これは、京都から熊谷に向かうとき、西方極楽浄土にいる阿弥陀仏と京都の法然上人に背を向けないよう、馬に逆さに乗り、念仏をとなえながら下向したというものです。
 「蓮生さんは一途な人でした。常識から外れたこともしでかしましたが、すべての人を救いたいという一心からです。名前の通り、共に浄土の蓮の花の上に生まれ、皆で一緒に、楽しく健やかに暮らしていきたいと願っていたのです」
 その後、天正19年(1591年)に、幡随意上人が蓮生法師の徳を慕い、寺院を建立しました。豊臣秀吉が天下統一を果たした翌年のことです。
 「幡随意上人が訪れたときには、草庵の地は荒れ果てていました。幡随意上人は、それを見かねて寄付を集めて回り、お寺を建てたのです。そのときから、正式に蓮生山熊谷寺という呼び名になりました」
 江戸時代には、七堂伽藍がすべて整っており、徳川家の厚い保護を受けていたといいます。しかし、三度の火災に遭いました。現在は、その総けやき入母屋造りの本堂をはじめ、蓮生法師霊廟、蓮生法師大霊像、山門、地蔵堂、鐘楼、客殿、庫裏、妙龍水之井などがあります。妙龍水之井は、災害を及ばしていた龍を、幡随意上人が法力で封じ込めた井戸だそうです。

注: 蓮生山熊谷寺は、檀家さん以外の方の参拝は諸般の事情によりお断りしております。

名号(みょうごう):仏様や菩薩(ぼさつ)の名前を紙や絹に書いたもので、お寺の本尊と同じくらいの功徳を持つとされています。


法然上人が蓮生法師のために
授けた、『斧替名号』

横取りした名号の代わりに
法然上人が授けた、『横取替之名号』

戦時中の供出を免れた、
徳川秀忠公の銘がある『梵鐘』


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