第139回直木賞にノミネートされた時代小説『のぼうの城』(和田竜・著)。この小説に描かれた難攻不落の水城こそ、関東七名城のひとつ、「忍城」です。
これまで「忍城」の築城時期には諸説ありましたが、文明11年(1479年)の足利成氏書状に「忍城」、「成田」と記されていることが明らかとなり、「文明11年には築城されていた」と考える説が有力です。
「忍城」を築いたのは、現在の熊谷市上之を本拠地とする武蔵武士、成田氏。成田氏の系図によれば、築城当時の城主は成田顕泰であり、以降、天正18年(1590年)まで、四代にわたって成田氏が城主を務めています。
かつての行田市は、利根川(北側)と荒川(南側)にはさまれた河川乱流地域。また、伏流水(地下水)が湧く湿地帯であり、とくに現在の水城公園から行田市役所までの周辺は大きな沼地となっていました。永世6年(1509年)にこの地を訪れた連歌師・宗長が「城の四方は沼地にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見え、まことに水郷である」と綴ったように、「忍城」は、沼地に点在する陸地に橋をかけて作られています。「守りやすく、攻めにくい、関東きっての名城」とうたわれた理由は、水郷としての地の利を利用していたからです。

天正18年(1590年)、関東平定を画策する豊臣秀吉の命を受け、石田三成は北条氏を味方する「忍城」を包囲。利根川と荒川の水を引き入れて「水攻め」にします。ところが「忍城」は落城しません。
行田市郷土博物館学芸係の門脇伸一さんは「築かれた堤よりも忍城周辺の地形がやや高かったため、完全に水没させるには至らなかったようです。三成が持久戦に持ち込んでいるうちに北条氏が降伏したため、城主・成田氏長の命により開城しました。」と失敗の原因を推測します。
やがて、人々の間で「水攻めされても沈まないのは、城が浮くからだ」との噂が立ち、それゆえ「忍城」は、「浮き城」と呼ばれるようになったのです。







北条氏の居城・小田原城が落城したのち、「忍城」も開城。徳川家康の関東入国後、天正20年(1592年)には、家康の四男忠康(のちの忠吉)が城主となります。
「忍(行田)が栄えたのは、寛永16年(1639年)から。老中の阿部忠秋が城主となり、忍城と城下町の拡張整備に着手したのがきっかけです。以後184年間、阿部氏の時代に今日の行田の礎ができています」(門脇さん)
忍藩は、元禄7年(1694年)に十万石となり、元禄15年(1702年)には「御三階櫓」が完成。天守閣を持たない「忍城」にとって、「御三階櫓」は象徴的な存在といえるでしょう。明治維新を迎えるとともに一度は取り壊されたものの、昭和63年(1988年)に再建されました。
再建と時を同じく、「忍城」の本丸跡地に「行田市郷土博物館」が開館します。文政6年(1823年)、松平氏の移封(他の領地へ移す)に際し、桑名から移されたという「時鐘」など、「忍城」ゆかりの遺品を展示。忍十万石の面影を、今なお映し出しています。


江戸時代から行田で盛んだった足袋産業。いまも行田では足袋産業の面影を残す建築物を数多く見ることができます。旧忍藩十万石から命名した行田銘菓「十万石饅頭」の「十万石ふくさや」本店店舗も足袋産業を象徴する土蔵造二階建ての建築物です。2004年に国の登録有形文化財として登録されました。


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