「関東流」「伊奈流」と呼ばれた高い土木技術で、多くの河川改修や用水路開削に取り組み、江戸幕府の繁栄を陰で支えたさえ言われる伊奈備前守忠次。関東各地で聞かれる「備前渠」「備前堤」といった運河・堤防の呼び名はもちろん、忠次の高い手腕と実績を今に伝えるもの。ここでは数ある「備前渠」の中でも400年を超える歴史を持つ埼玉県の『備前渠用水』をクローズアップしてます。
 「備前渠(びぜんきょ)用水」は1604年(慶長9年)に開削された農業用水路で、400年を超える歴史は埼玉県でも最古級。幹線延長は約23km、最大通水量は約9m3/s、利根川右岸一帯の約1,400haにおよぶ水田へ農業用水を供給しています。「備前」という名称はもちろん関東代官頭・伊奈備前守忠次に由来するもの。「渠」は人工の川や堀を指す中国流の呼び名。埼玉県北部では親しみを込めて「備前堀」とも呼ばれているそうです。
 当時、代官頭や関東郡代を歴任していた伊奈家はもともと土木技術に優れ、利根川の東遷や荒川の瀬替えといった河川改修をはじめ、葛西用水・六堰用水・北河原用水など関東エリアの著名な農業用水路の開削を手がけ、我が国の土木史に大きな業績を記しました。埼玉県には現在も北足立郡伊奈町、備前堤(綾瀬川の締切堤防)、備前堀川、備前前堀川など伊奈家ゆかりの地名や河川が数多く残っており、その繁栄ぶりをうかがわせます。
 備前渠用水の取水口は当初、烏川(利根川の支川)が利根川へ合流する地点(現在の本庄市仁手)にありましたが、洪水による烏川の流路変化で取水口が壊滅されたり、浅間山の大噴火による土砂の大量流入で用水路が埋没したり、しばしば大きな困難に見舞われました。そのたびに新たな取水口を求めて上流へと遡り、危機を打開するという艱難辛苦の歴史を重ねてきたことも、備前渠用水が地域の人々に親しまれてきた理由かも知れません。実際、その長く厳しい歩みを物語るように、用水路の周辺には取水の安全と洪水被害の軽減を祈願したと思われる水神宮が数多く祀られています。
 備前渠用水の周辺にはこのほかに、1833年建立の「備前渠再興記」、1903年建立の「備前渠改閘碑記」という二つの歴史的な石碑が見られます。備前渠用水は江戸時代末期、35年にわたり幕府によって閉鎖(取水禁止)されていた時期があり、「再興記」はその閉鎖の解除と用水路の復活を記念したもの。一方の「改閘碑記」は現在、取水施設である元圦と矢島堰が改築・竣工した時の記念碑で、備前渠用水の長い歴史が記されています。この碑文によると、1887年の移築の際、元圦は埼玉県で初めて煉瓦造りの河川構造物を建築。埼玉県では明治期以降、全国でも例を見ない250基以上の煉瓦造りの河川構造物が建築されましたが、その口火となったのがまさにこの元圦(備前渠圦樋)なのです。
ちなみに、石碑の題字は徳川幕府最後の将軍・第15代徳川慶喜、碑文は日本資本主義の基礎を築いたとされる埼玉県出身の大実業家・渋沢栄一。これだけでも一見の価値はありそうです。
 国の重要文化財に指定されている国内最古級の備前渠鉄橋など、貴重な河川構造物が現存する備前渠用水は開削当時の面影を残す素掘り区間も多く、水利施設の周辺だけに設けられた護岸もほとんどが石積み。自然との共存をめざした先人たちのすぐれた土木技術と治水事業の歴史に触れる、身近な散策スポツトと言えるでしょう。


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